背水の陣

中国の楚漢戦争の中で漢軍と趙軍とが井陘(現河北省井陘県)にて激突した戦い。韓信率いる漢軍が背水の陣という独創的な戦術を使って趙軍を打ち破った。

井陘口を抜けた韓信軍は、河を背にして布陣し城壁を築いた。『尉繚子天官編』に「背水陳爲絶地」(水を背にして陳(陣)すれば絶地(死に場所)となる)とある。水を前にして山を背に陣を張るのが布陣の基本であり、これを見た陳余は「韓信は兵法の初歩も知らない」と笑い、兵力差をもって一気に攻め滅ぼそうとほぼ全軍を率いて出撃、韓信軍に攻めかかった。

韓信は初め迎撃に出て負けた振りをしてこれを誘き寄せ、河岸の陣にて趙軍を迎え撃った。兵力では趙軍が圧倒的に上であったが、後に逃げ道の無い漢の兵士たちは必死で戦ったので、趙軍は打ち破ることが出来なかった。

趙軍は韓信軍、更に河岸の陣ごとき容易に破れると思いきや、攻めあぐね被害も増えてきたので嫌気し、一旦城へ引くことにした。ところが城の近くまで戻ってみると、そこには大量の漢の旗が立っていた。城にはわずかな兵しか残っておらず、趙軍が韓信軍と戦っている隙に別働隊が攻め落としたのである。大量にはためく漢の旗を見て趙兵たちは「漢の大軍に城が落とされている」と動揺して逃亡を始め、更に韓信の本隊が後ろから攻めかかってきたので、挟み撃ちの恐怖にかられた趙軍は総崩れとなり敗れた。

不思議な話

Y!知恵袋にこんな体験談があった。

ある早朝にめをさますと老人会で旅行中の祖母がいたのです。
私は「あれ?明日まで温泉にいくっていってたよね?」と聞きました。
祖母は「そうだったんだけど一日早く切り上げて帰ってきちゃったわ」と言いました。
朝食の時に祖母がいないので「お祖母ちゃんは?」と聞くと「何いってんの。旅行中じゃない」と言われました。「え?朝あったよ。一日早く切り上げて帰ってきたといってた」と話したら「夢でもみてたんでしょ」と言われました。
でも絶対夢ではありませんでした。
ちなみに祖母は足が悪かったのですが、旅行中に足が痛みだして早く帰りたかったそうです。

怖いというよりは、何となくほのぼのさせられる。

バイキングの由来

いいともの後続番組として、低視聴率が続いているバイキングだが、元のバイキングの由来はどうだろう。

1957年(昭和32年)、当時の帝国ホテル支配人の犬丸徹三が旅先のデンマークでスモーガスボードを目にしたのがきっかけとされる。犬丸は内容的に「これはいける」と確信し、当時パリのリッツ・ホテルで研修中で後に帝国ホテルコック長となる村上信夫に料理内容の研究を指示した。一方「スモーガスボード」が非常に言いにくく馴染みが無いものだったため、新しいレストランの名称を社内公募した。

その結果「北欧と言えばバイキング」という発想と、当時帝国ホテル脇の日比谷映画劇場で上映されていた『バイキング』(1958年)という映画の中の豪快な食事シーンが印象的だったことから、これを『バイキング』と名付けることに決定したという。

木山捷平

矢掛中学校(現岡山県立矢掛高等学校)を経て、1923年(大正12年)に姫路師範学校(現・神戸大学)を卒業。小学校教諭となる。1925年(大正14年)に東洋大学専門学部文化学科に入学。後に東洋大を中退する。中学校在籍時より詩・短歌・俳句を作り始める。

1929年(昭和4年)に処女詩集『野』を自費出版にて発表。1931年(昭和6年)には第二詩集『メクラとチンバ』を同じく自費にて刊行。同年11月、宮崎ミサヲと結婚。

1933年(昭和8年)に太宰治らと同人誌『海豹』を創刊。この頃、井伏鱒二と知己となり、以後親交が続く。同人誌創刊以降は小説家としての道を歩み、1939年(昭和14年)に処女小説『抑制の日』を発表、第9回芥川龍之介賞候補になる。1940年(昭和15年)に『河骨』が第11回芥川賞候補になる。

1944年(昭和19年)に新境地を開拓すべく満州(現在の中国東北部)の新京(現在の長春)に農地開発公社の嘱託社員として赴任する。1945年(昭和20年)に現地召集を受け兵役に就く。太平洋戦争終戦後、長春で1年程度難民として生活を送り帰国。1954年(昭和29年)に『脳下垂体』、1957年(昭和32年)に『耳学問』が直木三十五賞候補になる。